歌・読み・意味
『けふといへば もろこしまでも ゆく春を 都にのみと 思ひけるかな』
(けふといへば もろこしまでも ゆくはるを みやこにのみと おもひけるかな)
意味:今日は立春というので、本来なら遥か西にあるもろこし(唐土とも)にまで行くはずの春を、我が国の都にだけ訪れたと思ったよ。
出典・作者
出典:新古今和歌集・1巻・春歌上5
作者:藤原俊成・皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶ しゅんぜい(としなり))
作者生没年:1114年~1204年12月22日
歌の深読み
五行説によると、春は東に配され西へ向かって移ろっていくと考えられていました。
留まる事の無い春は、太陽が東から西へ沈むように、当然日本から見た西の国(もろこし)まで移り行くはずです。
しかし、この歌の中で俊成は、あえて宇宙の運行そのものを否定するかのように「都にのみと(春がやってきた)」と大げさに詠みあげることで、お題となっている立春の賛美と、お仕えする本朝(高倉天皇)の悠久(御代の永続)への願い(言祝ぎ)を見事に成し遂げていますね。
季節の周期開始が「立春」。
そんな移ろう季節の出発点を”都にのみ”留める事で、春(年始)そのものを祝賀し、御代の春(栄華)の永遠なるを織り込む。
政治不安(治承・寿永の乱)が全国を覆った世にあっての歌の詠進・・
俊成は、この歌に国家安泰への願いも込めていたのかもしれませんね・・で、おじゃる。
唐土とは、鮮卑人が起こした『唐』(西暦618年~907年)に由来。
また日本での「もろこし」の表現は、古代シナ大陸(現:シナ浙江省付近)に起こった『越』の国(紀元前600年頃~306年)にちなみ、諸越(もろもろを越えた先の国)といった広い意味合いで使われていました。
ですから歌の中の「もろこし」も、今のシナ大陸と訳すより「日本の西側彼方に広がる異世界へ」と見立てる方が、歌に込められた意味合いをより正確に感じ取れるのではないでしょうか。
『唐』や『遣唐使』の説明は、こちらの歌の紹介記事にお越しくださいね。
そして立春ですか、立春とは四立(立春・立夏・立秋・立冬)の一つで、「二十四節気(にじゅうしせっき)」の一つ。
「二十四節気」の日は固定ではないので年ごとに立春の日はかわります。(概ね節分の翌日・2月4日頃)
立春はその文字通り「春を感じる(春が立つ)最初の日」という意味。体感としては全く感じられないかもしれませんが立春をもって暦の上では春となります。
旧暦では一年の始まりの正月が立春付近であった為、この日は「春・年」の出発点(起点)でもありました。
ちなみに「二十四節気」は太陽の観測から編み出された「季節の節目・農耕の目安」の事で、以下の通りの節目となっております。
旧暦月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
節季 | 立春 | 啓蟄 | 清明 | 立夏 | 芒種 | 小暑 | 立秋 | 白露 | 寒露 | 立冬 | 大雪 | 小寒 |
中気 | 雨水 | 春分 | 穀雨 | 小満 | 夏至 | 大暑 | 処暑 | 秋分 | 霜降 | 小雪 | 冬至 | 大寒 |
歌の背景
詞書には「入道前関白太政大臣、右大臣に侍りける時、百首歌よませ侍りけるに、立春の心を」とあり、入道前関白太政大臣(九条(藤原)兼実)がまだ右大臣であった頃、歌の作成を依頼された俊成が、(立春をテーマにした百首歌のひとつとして)詠進した歌だという事が分かっています。
ちなみに詠進というのは「歌をつくり宮廷や神前に差し出す事」でおじゃるよ。
年代の比定は「治承2年(1178)7月」とされており、この時、依頼主の兼実は29歳・作者の俊成は64歳だったそうです。
当時としては親子以上に歳の離れた間柄でしたが、兼実は歌の師としてはじめ藤原清輔、のちに俊成を迎えています。
兼実は藤原氏の氏の長者に上り詰めるほどの人物で(摂政・関白)、源平合戦(治承・寿永の乱)の混乱期においても公家社会の秩序を保とうと奔走し、文化芸術の保護についても大変功績があったとされています。
そして俊成もまた、歌・能楽・茶道などに代表される日本の芸能に多大なる影響を与えた人物として、その名声は現在まで語り継がれています。
どちらも当時の第一級文化人であり、例え年齢が離れていても、主に「歌」を介した交流は長く続いていたようです。
藤原俊成について
藤原北家御子左流・藤原俊忠の子として生まれた俊成は、歌人として有名であった父(勅撰和歌集に29首)に負けず劣らず歌の才能に秀でており、自身の作品も勅撰和歌集に414首も収められています。
勅撰和歌集採録、最多順位はね~
- 1位:紀貫之さん・435首
- 2位:藤原定家さん(俊成の子)
- 3位:藤原俊成さん・414首
となっていま~す。
俊成は、父俊忠を10歳の時に失っており、そのため中央政界での後ろ盾が無く出世の方は芳しくありませんでしたが、持ち前の歌の才能が徐々に評価されるようになると、仁安元年(1167年)には公卿(三位以上の官人)に列せられています。(54歳ころ)
しかし、それから9年後の安元2年(1176年)9月には病気の悪化を理由に出家しています。(呼吸器系の病気。法名は釈阿)
俊成の歌風や後世への影響について、『ウィキペディア(Wikipedia)』ではこのように説明しています。
「やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき」[11]と評されたように格調高く深みのある余情美を特徴とし、古歌や物語の情景・心情を歌に映し奥行きの深い情趣を表現する本歌取や本説取(物語取)などの技法を確立した。歌合の判詞の中で用いた「幽玄」「艶」は、歌道から能楽・茶道をはじめとする日本の芸能に影響を与え、中世を代表する美的理念となった[12]。また門下からは息子・定家をはじめ、寂蓮・俊成卿女・藤原家隆、後鳥羽院・九条良経・式子内親王など優秀な歌人が輩出し、指導者としても新古今歌風形成に大きな役割を果たした。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』藤原俊成
俊成は、出家後も精力的に歌壇での活動に関わっており、文治4年(1188年)後白河院の院宣によって始まった第七勅撰集『千載集』の編集に携わるに及び、その名声は公家社会においても揺るぎの無いものとなっていきました。(75歳ころ)
そして、生涯を閉じるその年(1204年)までも、「祇園社百首」や「春日社歌合」に歌の詠進を続けていたそうです。(享年91歳)
まとめ
歌に身を立て、歌に生き、歌を残しつづけた・・そんな俊成の一生涯。
こんにちに続く我が国の文化伝統のそこかしこに・・俊成が残してくれた「幽玄」の精神性は脈々と受け継がれているのです。
『けふといへば 唐土までも ゆく春を 都にのみと 思ひけるかな』
この歌のご案内が、日本の古き良き伝統文化を振り返る折の一助となりましたなら・・とても幸いな事です。
おしまい。