画像説明:【おかずは釣れましたか?】いまだボウズのタヌキ・・詩の一つも浮かんできませんの図
我が国では毎年5月5日は『こどもの日』、また五節句の一つ『端午の節句』としてなじみが深いと思います。
しかし・・
「その由来はどこからやってきたのでしょう?」
と問われると、案外答えられない方は多いのではないでしょうか。
ってことで、屈原にまつわる素晴らしい『詩』のご紹介とともに、どうして5月5日が子供の日になっているのか?などについて簡単な説明をして行きたいと思います。
前後編の2部編成:今回は前編・楚の人『屈原』の紹介と楚辞『漁父』についてです。
約2300年前:古代シナ「楚国」に生まれた楚辞「漁父」とは
今より約2300年前のシナ大陸・・そこは当時いわゆる春秋戦国と呼ばれた時代で、大小さまざまな国が割拠して争っていた大乱世の末期頃でした。
楚国は、くしくも「新型ウイルス」で世界中を恐怖に陥れた武漢市が置かれる地域、現在のシナ湖北省・湖南省一帯に起こった国でした。
広大なシナ大陸が一度も統一されぬ混沌とした世にあって、独自の文化が花開いた楚国。
同地からは、後に完成をみる『漢詩』に多大なる影響を与える、『詩』の一大傑作が誕生する事となりました。
それが『楚辞』なのです。
楚辞とは楚に広く用いられた辞と呼ばれる形式の韻文の事で、のちにそれらが収められた詩集自体の名称にもなっていきました。(詩経が主に北方民族由来の古典なのに対し、楚辞は古代南方文化の代表格)
楚辞「漁父」の作者にして主人公の「屈原」とは?
「屈原(くつげん)」・・名は平・原は字
楚国の王族出身で三閭大夫
屈原は当時置かれた楚の状況を正確に見抜き、同盟などの悪戯な外交政策に頼る事無く、国防に専念し、民族特有の文化伝統を大切にするようにと、たびたび王(懐王)やその子頃襄王に進言していました。しかしそのことがかえって独善的と捉えられ、各方面で対立を深めていました。
後に敵対する佞臣の嫉妬・告げ口により楚国を追放処分になってしまいます。
楚辞「漁父」までのあらすじ
楚国にあって人臣の位を極めていた屈原・・
護国の重要性、そして伝統への配慮にも抜群なる手腕を発揮していましたが、やがてのその存在を妬む者が現れ、まことしやかにささやかれる噂は王の耳にとまるようになりました。
「楚を支えているのは王ではない、私(屈原)こそが楚を支えているのだ。」
頃襄王は怒りにまかせ屈原を流罪(国外追放)としてしまいました。
屈原「ああ・・何たることだ。かわりゆく我が祖国・・もはや楚の伝統も文化も、そして国さえも全うできなくなってしまうのか・・」
人の心の浅ましさ・・
正義不在の世の中・・
そのすべてに望みを失った屈原は、やがて自らの死に場所を求めるように揚子江岸にたどり着き、その大河に注ぐ支流「汨羅江」に身を投じる事になります。
今回ご紹介する楚辞「漁父」は、屈原がこの世に存在した最後の瞬間に立ち会った漁父(漁師)と、屈原との間に交わされた・・立場の全く違うもの同士の噛み合う事の無い会話としてまとめられており、それはさながら哲学に通じる『問答形式の詩』(「漁父」伝・屈原作)のように謡い込まれております。
楚辞「漁父」
それではここからは実際の楚辞「漁父」について触れていきましょう。
楚辞(漢文)・書き下し(よみ)・意味の順に紹介しています。
意味だけ知りたい方は『会話形式による楚辞「漁父」のザックリ訳・解説』まで飛んでくださいネ。
楚辞「漁父」:漢文
屈原既放 游於江澤 行吟沢畔。
顔色憔悴 形容枯槁。
漁父見而問之曰、「子非三閭大夫与、何故至於斯。」
屈原曰、「挙世皆濁 我独清。衆人皆酔 我独醒。是以見放。」
漁父曰、「聖人不凝滞於物 而能与世推移。世人皆濁 何不淈其泥 而揚其波。衆人皆酔 何不餔其糟 而歠其醨。何故深思高挙 自令放為。」
屈原曰、吾聞之。「新沐者必弾冠 新浴者必振衣。安能以身之察察、受物汶汶者乎。寧赴湘流 葬於江魚之腹中 安能以皓皓之白 而蒙世俗之塵埃乎。」
漁父莞爾而笑 鼓枻而去。
乃歌曰、『滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足』
遂去不復与言。
「漁父」(伝・屈原)
楚辞「漁父」:書き下し(よみ)
屈原既に放たれて 江潭に遊び 行くゆく澤畔に吟ず。
顏色憔悴し 形容枯槁す。
漁父見て之に問うて曰く、「子は三閭大夫に非ずや 何の故に斯に至るや」と。
屈原曰く、「世を挙げて皆濁り 我独り清めり 衆人皆酔ひ 我独り醒めたり 是を以て放たる」と。
漁父曰く、「聖人は物に凝帯せずして 能く世と推移す 世人皆濁らば 何ぞ其の泥を濁して 其の波を揚げざる 衆人皆酔はば 何ぞ其の糟を餔(喰)ひて 其のしるを啜らざる 何の故に深く思ひ高く挙がりて 自ら放たれ令むるを為すや」と。
屈原曰く、吾之を聞く・・「『新たに沐する者は必ず冠を弾き 新たに浴する者は必ず衣を振るふ』と、安んぞ身の察察たるを以て 物の汶汶たる者を受けんや 寧ろ湘流に赴きて 江魚の腹中に葬らるるとも 安んぞ皓皓の白きを以てして 世俗の塵埃を蒙むらんや」と。
漁父、莞爾として笑ひ 枻を鼓して去る。
乃ち歌ひて曰く、『♪滄浪の水清まば 以て吾が纓を濯ふ可し 滄浪の水濁らば 以て吾が足を濯ふべし・・』
遂に去って復た与に言はず。
楚辞「漁父」:意味
ここからは藪なタヌキのザックリ要約・説明が並びます。
「漁父」について詳しく知りたい方は原典にてお願いしますね。
屈原の語る「新沐者必弾冠 新浴者必振衣」
漁父の歌う「滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」
立場の全く違うもの同士・・永遠に平行線をたどるかのような人生訓・そして処世術・・
どこまでも清らかでいたい、「汚れにまみれるくらいなら、いっそ死を選ぶ」とする屈原に対し・・
漁父はあざ笑うかのように歌って返します・・
「人は生き抜いてこその物種、時々に応じて価値観などは柔軟に変えて行けばいい」と・・
古代シナ史に燦然と輝く『楚文化』・・近年では他のシナ地方の文化とは切り離した研究が進められているそうで、考古学的にも再編成が進められているのだとか・・
共産国家じゃなかったら、素晴らしい発掘・研究がなされていたかもね・・
残念・・
屈原の去った楚国のその後・・
湖北・湖南の地は気候が温暖で人口も多く、古くから農耕民族の支配地域でした。
それが春秋時代になると北方からの騎馬民族系がシナ大陸の南方深くにまで進出、版図を拡大していました。
屈原が育まれた楚はまさに騎馬民族に侵略される最前線・・南方文化の最北端に張り出したような国家だったのです。
屈原は「巫祝」(一種の霊能者)集団の統括者として、昔ながらの古典に精通し、楚人として先祖より引き継いだ伝統・文化の大切さ、また国防の必要性を楚の王・他の王族・そして民衆に訴えかけました。
しかしちょうどそのころ、人々は前時代的な宗教的呪術・占いなどに頼らない生き方を模索し始めており、観測や物的証拠をもって国家運営などを語る、現実主義的価値観に移行する過渡期だったようで、屈原の訴える考え方は、徐々に楚において廃れていき・・
屈原その人もまた、王直々の命令をもって国家追放処分となってしまいました。
伝統や宗教、占いなどから遠ざかった価値観は一見合理的で説得力を持ってはいましたが、しかしその蔓延は、同時に伝統・文化の内にこそ込められた「民族の結束力」「国防の大切さ」といった、国家の根幹を担っていた精神的支柱を人々に忘れさせてしまう”副作用”をもあわせ持っていたのでした。
而して屈原去りし後・・
同盟や話し合い、事なかれ主義で民族の本質を薄めてしまった楚も楚人も・・騎馬民族の本質(地平線の彼方まで我が物)の前に、前278年:後にシナ中原の支配国家となる秦によって、首都「郢」(現シナ湖北省荊州市)を失い、見事に亡国の一途をたどっていきます。
- 前223年:楚滅亡
- 前221年:シナ大陸は史上初めて秦の趙政(始皇帝)によって統一
「皆濁りて我独清めり」
「皆酔いて我独醒めり」
屈原の抱いた届かぬ思い、そして無念もまた、この二段の内に集約されているように感じます。
【参考過去記事】
『必見!日本人が中華人民共和国について誤解する歴史認識と4つの事』
おしまい。
【続きはこちら】
「端午の節句」編へ⏎