画像説明:【美々津港灯台遠望】「永遠に輝く」の異名を持つ、別名:神のみあかし
建国神話&日本海軍発祥の地:日向美々津の湊
一般的に教育なんてものは、
煮詰めてしまえば半分は親の偏見(エゴ)で、もう半分だって下らない社会からの押し付け(オーダー)になりがち。
だったら、
当サイトの住人家族くらいは、思い切って「日本人が捨て去ろうとしている建国神話」や「土地の精霊や地神様からいただく生命力」を背景に、のびのびと大和心(やまとごころ)ばかりを育んでやろうと思うのです。
↓写真は、宮崎県日向市美々津町にあります神武東征御舟出の地記念碑。
神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと・のちの神武天皇)御一行が水軍を引き連れ東征に赴いた出立地こそが、ここ美々津の湊だとされています。
古事記によれば、
神武天皇ご即位の7年くらい前、日向(ひむか)を出立した御一行は、途中「早吸日女神社」(はやすひめじんじゃ)や、珍彦(うつびこ・うずひこ)という国神(おそらく豊後国の豪族)の助力を受けながら、海上交通の難所「豊後水道(速吸の瀬戸)」を無事通過する事に成功します。一路別府湾へ。
各地の豪族から歓迎を受けた御一行は、やがて豊前宇沙(現大分県宇佐市)に到着。
宇沙では、宇沙都比古・宇沙都比売と呼ばれる国神(宇佐神宮神話に連なる一族?)が御一行の為に仮宮まで造営し飲食を提供したと伝えられています。注:おそらく長期滞在。
その後の御一行は、筑前を経由し陸路中国地方各地を訪問しながら稲作文化を伝え、数年かけてようやく浪速(大阪)の地へとたどり着きます。
途中、大和国(奈良県)鳥見(とみ)の土豪長髄彦の抵抗はあったものの、無事橿原の地に到着。
はれて紀元前660年。
かの有名な【八紘一宇】の精神の下、神日本磐余彦天皇は初代神武天皇としてご即位します。(皇紀元年=日本国建国の瞬間です)
注:ちなみに西暦2024年は皇紀2684年となります。
♪御国の四方を護るべし~
建国神話にもある様に、
初代神武天皇が水軍を率いて船出したことから美々津の湊は日本海軍発祥の地ともされおり、神武天皇が腰かけた岩を御神体とする立磐神社のそばには「日本海軍発祥之地碑」が建立されています。
詳しくはHPへ⇒【外部リンク『立磐神社』】
当然、
悪乗りしたタヌキ一家は、他の観光客が引けたタイミングを見計らい「日本海軍発祥之地碑」に向かって「軍艦マーチ」こと軍艦行進曲を絶唱。(注:家族5人全員歌えますWWW)
御国の四方を護るために散った英霊各位にまで「オンチな鎮魂歌」が届いているといいんですけどね~。
よ~そろ~
そして、
旅の締めくくりは、九十九里の砂に似たきめ細やかな美々津の砂浜にタヌキの落書き(マーキング)。
下の子供はまだ小学4年なので、行く先々でタヌキが教えた建国神話の内容も、国家の意味するところもほとんど覚えていられないでしょうが・・
家族そろっての「軍艦マーチ」や、砂浜への「落書き」。
そして、お昼ご飯の「チキン南蛮」、おやつに食べた「マンゴーフラッペ」「延岡七万石羊羹」の味は・・きっと忘れない事でしょう(笑)。
~大和心を育む~
そもそも教育なんて、このくらいでちょうどいいと思いませんか?
「分かるか?」「伝わるか?」なんて関係なしに、親が子供に「伝えたい事」、日本人として備えておいてほしいと思える「精神性」を、自然や神話の力を借りながら自信をもって伝えていけばいいのではないでしょうか?
ちなみに、
タヌキが敬愛してやまない馬渕睦夫先生は、日本(人)が大切にすべき伝統的精神性を「大和心」とおっしゃっています。
- 「WGIP」:国家否定・自虐に染まる戦後教育
- 「今だけカネだけ自分だけ」:利己益追求型グローバリズム教育
- 「大和心」:自然と建国神話に力を借りたタヌキ家教育
どうせ色々な教育の答え合わせなんぞ、数年後にはっきりとするはずです。
タヌキ家から巣立っていく子ダヌキ達が
- 「父ちゃんありがとう」
- 「母ちゃんありがとう」
と、振り返るのか・・
- 「下らない教育を押し付けやがって!!」
- 「とっ捕まえてタヌキ鍋にして食ってやる!!」
と、息巻いているのか・・
タヌキ父ちゃんとしては、今から楽しみで楽しみでしょうがありません。
いつの日か、
タヌキ家から巣立った子ダヌキ達が、大自然や神話の香りをまといながら、みなさんの前に「ひょっこり」お邪魔するかもしれません。
そんな折には、どうぞ(保健所に連絡することなく)かわいがってくださいましネ。
以上、
神話の湊・美々津からの思い出でした。
おしまい。
おまけ:美々津に伝わる「つきいれ団子」と「おきよ祭り」
=神武東征の船出=
神武天皇御一行は旧暦の8月2日に美々津からの船出を予定していました。ところが、風・潮の都合が悪くなったことで急遽予定を変更、一日前倒しでの船出となりました。
これに慌てた人々は、お祝いに用意していた食材すべてを団子にして天皇御一行に献上。
その時の「つきいれ団子」は、別名「お船出団子」「お船出餅」とも呼ばれているそうで、現在でも宮崎県の郷土菓子として神話の縁をこんにちに伝えています。
また、天皇御一行の早朝出発をお見送りしようと、地元の人々がまだ寝静まっている各戸の戸を「おきよ」「おきよ」と叩きまわった故事にちなみ、現在でも美々津町では、
旧暦の8月1日の夜、
~子供たちが短冊付の『笹』を手に「起きよ、起きよ」と家の戸を叩いてまわる~
「おきよ祭り」が執り行われるそうです。
参考資料:日向市美々津町歩き「案内図」神武東征物語より
注:「つきいれ団子」については諸説あるそうで、「船でも食べられる様に、あんこ入り団子を作ろうとしたが、船出が急だったためにあわてて米粉と小豆を搗(つ)き混ぜた団子を作った事」に由来する説もあります。